誰かを信じたことありますか?

先日ある人に

「誰かを信じたことありますか?」と聞かれました。


それまでの会話を書いてしまうと長くなるので、
ここでは書かないでおきますが、

そんなことを改めて聞かれてはじめて、
「信じる」ということ考えてみました。


私が誰かを信じたことがあるのか・・・

その答えは、「NO」です!


 


私は人を信じたことがありません。


こんなことを言うと「冷たい人だ」と
思われてしまうかもしれませんが、

いくら考えても
相手を信じるという決意をしたことが無いんです。


なぜ信じたことがないのかを説明する為に、
次のようなシチュエーションをイメージしてみてください。

もしも、家族の誰かが警察に捕まったとしましょう。

そしてその家族に話を聞いてみると
「私はやっていない!信じて・・・」と言われたとします。


そこで二択が現れます。

「信じる」か「信じない」の二択です。


この二択が現れた時、
私はとても違和感を覚えます。

なぜ相手を「信じる」と「信じない」のどちらかに
振り分けないといけないのか・・・?


これは私自身が相手を信じるか否かではなく、
相手をどちらの囲いに入れるかを決めているにすぎません。

変な感じしませんか?
相手を選別する思考って・・・


私は誰かを信じたことはありませんが、
その逆に「信じない」と決めたこともありません。

ただ信じたことがない・・・
だから信じないという選択もない・・・

そんな感じです。

私の中では、
人を「信じる」とか「信じない」という対象として
認識していません。


もしもあなたが信じていた相手に裏切られたら、
どんな感情が生まれるでしょうか?

あなたは誰かを信じて

「きっとあの人なら○○してくれる・・・」

「あの人に限って絶対にありえない」

そんな思いを裏切られたとしたら・・・

想像できますよね。


相手を恨んだり憎んだりと言う、非難する心が生まれます。


先ほどの例えで、
家族が警察に捕まった時の話をしましたが、

もし私がその当事者なら捕まった相手を信じるのではなく、
その言葉を受け入れることだけをします。

「言葉」を信じるという感じでしょうか。


例えその家族が嘘を言っていたとしても、
その人を信じたわけではないので感情は揺らぎません。

また新たな言葉が私に語りかけられたならその言葉を信じ、
それをもとに私がどう行動するかを考えるだけです。


つまり相手を基準にした選択は、
望まない結果が出た時の責任を相手に求めることになります。

しかし選択基準が自分にあれば、
相手がどうであれ全ての結果は自分が招いたものなのですから、
相手に責任を求めることはありません。

だから私は、
相手を「信じる」とか「信じない」ということを
考える必要はないと思います。

自分の行動基準を相手に求めるのではなく、
自分の中に持っていればそれだけでいいのではないでしょうか。



この話を
信じるか、信じないかはあなた次第です!
 


 


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